[squattersnode] 態度の話など

Posted on 4月 20, 2010

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昨日は、バタバタしながら仕事も進まず、NP氏を迎えての突発的「あそび部」。
ぐしゃぐしゃなものをひとつひとつ整理しながら・・・。

基本的には、8月にオープンさせるメディアの企画の話と、なぜかホロスコープの話。

ホロスコープはある意味すごい体系だ。

近所のバーなどで、日夜そんなことが行われているらしいのだが、石の声が聞けるとか、オーラが見えるなどというインチキ話ってのは、体系も糞もなく「なぜか信じてしまう人」がいて成立している。それは、自分自身からすすんで決定を放棄することを選択した人々だ。知はめんどくさい。体系ってのは本当にめんどくさい。めんどくさいことを自分から進んで身につけるよりは、「なんとなくのカン」で生き続けたほうが楽だし、なぜか、そういう楽な生き方をしていると周囲に似たような人たちが集まってきて、いわば、「心地の良い共同体」が出来上がる。

実は、この「心地の良い共同体」が曲者で、そのなかで、ひとつの概念を提示すると、彼らが丸ごと同じ方向を向いていく傾向があるらしい。

リーダーと呼ばれる人とフォロワーと呼ばれる人。

そのどちらもが、実は、消費の渦のなかにとりこまれているような状況だ。

それが、先に挙げた、石の声が聞こえるとか、オーラが見えるなんていうインチキリーダーと、そのフォロワーたちの仕組み。

一方で、ホロスコープが凄いのは、その解読、知識の習得が、非常に難しいということ。
なんか、PC上に表示されているレーダーチャートのような物を見せられながら、話をしていくのだけど、その読解が非常に困難な技なのである。彼らはある意味、体系化された学問として、わざわざハードルの高いプラクティスをしつづけているのだ。

美しきディシプリンとプラクティス。

自分の内側に持つべき態度として、石の声が聞こえる人とホロスコープを「勉強中」の人たちとは全く態度が違うのだ。

石の声が聞こえたり、オーラが見えるというのは高度な成立では、「秘儀」の部類に入るんだろうが、消費共同体の内部で行われているインチキなものには、「秘儀」を獲得するための修業が伴っていない場合が目立つ。何人かのそういう自称スピリチュアルな人々と話をしたが、彼らは、ある意味、誇大妄想的な地平から、自分流に「秘儀のようなもの」を消費させられているに過ぎない。真面目に批判する対象ですらないのだが、そういう態度が、なにやら不可思議な魅力として出てきてしまう共同体ってこの国に溢れかえっているような気がして、そういう状況は危機的なんじゃないかなと。
つまり、「何一つ訓練や修業をしないままに、何者かになれてしまう」らしいのだ。

この議論ってのは、「アマチュアの時代」論に継続している。

まあ、ホロスコープなるものの結果をもとに、しばらくコミュニケーションをすることで、自分の記憶や考えを整理するような体験自体は、非常に戦略的であるが、石の声が聞こえても、不細工な素人の不思議コミュニケーションを超えることはない。その内容は単なる共同体内部の権力構造の確認でしかないし・・・。

てなわけで、週末に、ひとりブレストをするかたわら、ホロスコーパー(って言っていいのか?) と、語りあうのも一興だと思える体験であったのだ。

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